2011年08月12日
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ついに天神溜池跡に到達す

Written By: 川俣 晶連絡先

 古地図から存在を推定して場所もおおむね特定した今は無い池。

 それを見るために自転車で再度出動しました。

 しかし、予想を裏切ってかなりあっさりと詳細が分かってしまいました。

 場所を推定したブロックに存在する児童公園は天神公園といい、ここに「天神溜池跡」の石碑がありました。

用賀ナビより

馬事公苑の東側を南流していた品川用水というのは、寛文3年(1663年)熊本藩主・細川越中守綱利の弟、若狭守利重が品川領を拝領したときに、庭内の泉池用として水を引くために4年がかりで玉川上水の分水から掘割って造った長さ7里(26キロ)余りにわたる用水です。

しかしこの用水はこの周辺の水不足に悩む農民たちの嘆願によって1669年には庶民に下賜され、用賀村も2ヶ所の分水口によって農地の干害を潤すようになった。ところが上流の村々が取水すると品川領まで水が届かなくなるという理由で、元禄2年(1689年)には再び閉塞されてしまった。(品川用水は昭和25年~27年にかけて埋め立てられた)その後農民はまた水不足に苦しみ、品川用水から漏れる水をためて、1720年には天神溜池(上用賀1丁目)を多くの人の労働によって掘り、又湧き水なども利用して田頭溜池(上用賀4丁目)中丸池(上用賀5丁目)村山池(用賀2丁目)今田屋の池(用賀2丁目)などを次々に掘って農業用水とした。

 つまり、天神溜池は1720年から昭和初期まで存在していた人工の池ということになります。とりあえず、この記述を信じるとして。

考察あるいはただの想像 §

 ということで、別の違和感が解消されました。天神溜池は位置が不自然です。水源地というには、谷の下流過ぎる位置にあります。しかし、人工の池なら納得です。

 しかし、これは天神溜池が水源では無いことを意味します。

 歴史的な経緯と、地形の等高線から推定されることは、以下の通りです。

  • 馬事公苑のひょうたん池は人工の池である。成立は(おそらく)昭和の比較的後期である
  • 天神溜池は人工の池である。成立は1720年である
  • 谷地形そのものが人工地形とは考えにくい。
  • ここに谷を形成した自然の小川の存在が推定される
  • 推定される自然の小川の水源地は、馬事公苑のひょうたん池付近である (天神溜池の位置では下流過ぎる)

 ちなみに、天神溜池が品川用水の漏水を貯めるためのものなら、品川用水の近くである必要はありません。天神溜池より上流方向に、漏水を集めて流す水路があったことも考えられます。

余談 §

 天神溜池という用語を知ったことで、急に検索で分かることが増えました。結果として分かったことは、主要な大多数のサイトは天神溜池を上流端と認識していることです。しかし、ひょうたん池を起点に標高だけを見て探索していた立場からは微妙です。つまり、こちらはより上流側の流路の存在を最初に想定してしまっているからです。

 とはいえ、検索が上手く行かない理由は良く分かりました。そもそも想定する範囲が違うので、「馬事公苑を起点とする水路」なるものは検索しても出てきませんが、少なくとも天神溜池から下は同じ経路を見ています。(同じ場所の写真を他人のサイトに大量に見ることは驚くばかり)

 それから、他にもいくつか見てきたところはありますが、それはまた別の話題ということで。

 ちなみに、過程と推定を語っているので、中身を信じるなよ!

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